あとを引く歌(1)・・名詞の力
三十六色の色鉛筆でまず我は三十六個の風船を描く
おもしろい作品です。
「これが短歌?」と言う人もいるでしょう。
「我」ではなく「僕」であれば小学生がつくった作品だと思うかも知れません。
シンプルな表現、構成にひかれ、そして私はうなります。
この歌には表現している内容以上に伝わってくる
気分のようなものがあります。
その気分のようなものが魅力となっているようです。
その気分を導きだすものは、まず「三十六色の色鉛筆」でしょう。
「十二色」ではありません。
「三十六色の色鉛筆」という名詞の力。
心まで見えてくる名詞です。
「三十六色の色鉛筆」を目の前にしているときの気分を想像してみましょう。
かなり高揚しているはずです。
プレゼントされたもの、と想像すればなおさらです。
その気分をさらに明らかにするのが「三十六個の風船を描く」です。
三十六色の風船をひとつひとつ描いている作者を想像してみましょう。
気分はさらに確かなものになったはずです。
表現されている事物、情景は単純ですが、
我々はそれ以上のものを受け取っているでしょう。
直接的に書かれていない気分のようなもの、
それがこの歌の眼目になっているようです。
引き込む力(7)・・「ドーナツ論」
幼な子は通ふごとくにひとつ咲く水仙のまへにゆきてこごみぬ
少しごたごたした感じはしますが・・・
写生のゆきとどいた魅力的な作品です。
継続的にこのブログをご覧いただいている方は
これから私が説明することのおおかたは想像できるかも知れません。
同じようなことをこれまでにも書いているからです。
幼な子を丁寧に写生しています。
登場するのは幼な子と水仙。
この歌の主題は幼な子への思いです。
そして、その眼目の思いは直接的には何も表現されていません。
河野裕子の「ドーナツ論」で言えばドーナツの穴です。
引き込む力のある作品に多く見られるスタイルです。
敢て隠しているのかも知れません。
その眼目の思いは、幼な子の動きを描くことによって、
間接的に表現されています。
「ドーナツ論」のドーナツの部分です。
間接的に抑制して表現されているからこそ
作者の心が読者に確かに伝わってくるのです。